這是2016年去四川教書以前,和我的日本徒兒大庭的上課內容,四川課的內容很多都是從這個討論發酵出來的,在此分享一下酒麴的原貌。
漢方の見方とか論文とか。
2016年8月23日47分から
JT‐普通の漢方医学の授業は臨床に向いている内容。でも大庭さんの考える論文は臨床向きではない。どちらかというと哲学や物語。
JT‐だから、例えば、陰と陽の見方とかの問題になるのかな。何が陰で何が陽か。現在では両方ともとても狭い概念となっている。本来はもっと大きい。でも、論文を書く時に論文を審査する人は、その陰陽の概念が大きいことを理解できないから、論文を評価もできないだろうし、たぶん、論文として受理されない。
大庭‐はい、だから、物の見方と表現の仕方がポイントとになると思う。その切り口になるのが、武道の「型」の切り口。武道の「型」は、達人に至るために体得する必要がある言葉では伝えられない内容を伝達する手段。1つの型は決まった構えと動作の連続で構成されていて、構えと動作の連続性に意味がある。だから構えと動作を分解すると内在する知が失われてしまう(つまり言語化?分節化できない)。達人に至るために、複数の型が準備されていて、個々の型を順次体得することでステップアップする。内在する知は開放系で、その「型」だけで成立するのではなくて、より大きな範囲(例えば実戦)で通用する。保存的で再現的という点で科学に通じる伝達と共有の手段となり得る。分節化?言語化できない知の固まりを共有して伝達する手法と言える。暗黙知にアプローチして、分節化?言語化を介さないで形式化し(型そのもの)、知を暗黙知(身体知)として理解させる。
大庭‐傷寒論も「型」だと思う。論理を挟まずに「証と方剤の組み合わせ」という「型」を多く提示することで体系を作っている。この「型」の裏に、陰陽五行?六気の理論がある(が、メタファーであり、理論を重視し過ぎると空虚なものとなる)。
大庭‐「証と方剤の組み合わせ」は、暗黙知と形式知と関係するのか。意は暗黙知、「証と方剤の組み合わせ」)は形式知。
JT‐傷寒論のクリニックは形式知で、裏には暗黙知があることを皆感じているけれど、暗黙知を対象とした研究がない。例えば、地黄=滋陰、といった1対1に論じていて、これでは暗黙知にはアプローチできない。
大庭‐サイエンスは、まさにそうで、形式知の中で1対1の因果関係を論じる。
JT‐吉益東洞が言った通り、漢方は闇の中。中国もそう。理論は邪魔。日本の医者は理論を知らないから闇の中。中国人は偽物の理論を信じているから闇の中。
JT‐傷寒論の型(証と方剤の組み合わせ)をまとめると、真実を知ることができるはず。今の医者は自分勝手の理論や幻想で処方することが多い。
大庭‐幻想も書きたい。サイエンスとは異なる見方を提示したい。暗黙知と形式知を橋渡しする方法論として。幻想でも意(暗黙知)へのアプローチ。
JT‐例えば、傷寒論を読めば色々な方剤と証の組み合わせから色々な陰陽が存在することが分かる。だけど、今の中国人の医者は、陰陽は一つで狭い見方になっている。例えば補陽では、附子が代表的だけれど、附子のみではない。
大庭‐今の漢方医は直接陰陽を語るから狭くなるのでは?
JT‐陰陽という資料ファイルにはたくさんの資料が入っているファイル。
大庭‐傷寒論では直接陰陽を語るのではなく(これが陰陽とは直接には言わない)、方剤と証の組み合わせによって間接的に陰陽を表現する(バックグラウンドとして語る)。直接言うと言葉になるので意味が狭くなる。間接的に表現するからこそ様々な陰陽を表現できるのではないか。
JT‐例えば、陰は形の有るものなので、世の中にあるすべてのもの。どのように扱うべきか。咳の方剤の炙甘草湯と麥門冬湯は共に陰を補充する方剤(滋陰)だが、そのやり方は異なる。しかし、後世方派はどちらも「陰」で良いと考える。例えば地黄を使うときは鶏卵黄身でもよいという解釈。傷寒論でははっきりと分けている。今の臨床医は後世派のように例えば「陰」をひとくくりの同じものと捉えている。これは、まず理論から入ってしまうため。だけど、傷寒論では理論は示されていないが、証‐方剤という型によって様々なことを表現していて、理論から入って「陰」は一つ、というような考え方ではない。傷寒論を通じて、色々な証―方剤のパターンを勉強してもらい、裏にある理論や概念の多様さを勉強してもらいたい。
JT‐だけど、今教えている物語では論文にならない。というのも、魔法の世界で、魔法の言葉を使っているから。論文にするには人間の世界の言葉としてどのように伝えるのか?言葉を教えること自体が難しい。
大庭‐直接その言葉を語るのか、間接的にその言葉を語るのか。間接的に魔法の言葉を語ることで伝わるのではないか。
JT‐それには文学的な表現力が必要でしょう。論文では難しいのでは?いつか自分が英語で漢方医学の本を書くときは、タイトルは「Chinese Medicine; Practical Witchcraft」。実践できる魔法。漢方医学は効果がはっきりと分かる魔法。実践できるので、魔法と科学の重なる部分で接点。その接点が存在するので、実践できる。
大庭‐再現でき、継承できる。
JT‐あと検証できる。
大庭‐私の場合、まずは、科学の雑誌に、科学の視点でレビューかな。
JT‐科学の雑誌(Complemental Medicine)に出版されたものを読むと、作者と内容がクレージーに見える。科学よりも哲学や文学が良いのでは?科学の雑誌に出すのであれば臨床がよい。
大庭‐臨床は理論がなくてよいから。
JT‐どうやって科学の世界で、漢方の理論の部分(魔法の部分)を科学的に伝えるのか?哲学にしてはつまらない。どうすればよいか。とても難しいけれど、とても大切。僕は漢方の世界からでて論じるつもりはない。
JT‐論文は読み手がさらなる興味をもってくれないと駄目。
大庭‐多くの小さな論文を積み重ねる。
JT‐それによって徐々に言葉を作り、科学と魔法の架け橋を作っていく。人生の仕事だよ。
大庭‐そう。それでよい。総合人間学を目指している。それは、モノの見方と表現の仕方。「型」という視点で。「型」は暗黙知と形式知を橋渡しできるもの。
JT‐普通の人間にできるのか?シャーマンになってしまう。
大庭‐シャーマンにならないために「型」を提示する必要がある。「型」には言葉はいらない。「型」を「型」として提示する。漢方も武道も「型」の視点で切ることができないか。
JT‐喜―心、怒―肝、悲―肺、思―脾、恐―腎。感情と身体の対応関係。例えば、乳癌が乳頭にでれば、肝経の上なので、肝癌に繋がる。乳房にでれば胃経の上なので胃癌に繋がる。それぞれ、怒りっぽい(恨む気持ち)人は乳頭癌?肺腺癌、思い煩う(焦る気持ち)人は乳房癌?胃癌、へと繋がる。肺腺癌は脾経の上で宗教病由来(幻想の世界に生きている。観念と事実の区別がつかない)。リンパ癌は少陽胆?三焦経の上で拘制狂由来(すべてを自分のコントロール下に置きたい)。恐れは人間が物質的実体のみから構成されているという気持ちからくる(本来の魂の部分を認めることができれば防げる気持)。感情と身体の対応関係の地図は、科学と言えるのか言えないのか。例えば、私の叔母はガンになったが、この対応関係とはかけ離れている。精度のない地図。どういった時に、どう使うのか?
大庭‐この地図は対応関係がはっきりし過ぎていて使いづらい。陰陽を一つの概念に当てはめたのと同じだと思う。
JT‐この地図は五行の理論。でも六気で見ると当てはまる。六気であれば、癌の患者はすべて体質に厥陰病の特徴がある。これははっきり言える。六気であれば使えるのではないか。
大庭‐六気の考え方は、1対1の対応関係の説明ではなく、厥陰病という広く様々な意味を含んだ地図だからでは?
JT‐陽と陰の扱いはどうしたら良いか。
大庭‐広い意味で捉えていくという態度は崩してはいけないのではないか。例えば、桂枝の木に侵略と書く文字のイメージ(桂の古い字。木偏に帚)。様々な役割と効果がこの文字のイメージの中に含まれている。使いやすいし使える。
JT‐桂枝の侵略とうイメージの話は、ほとんどの本草の本にはでてこない。
大庭‐桂の古い字(木偏に帚)とイメージが一番大切で、補薬といった定義はよくないと思う。すべてはイメージから出てくるものである必要があるのではないか。本草の役割は、主に補薬や暖といった性質で語られるが、これが間違った方向に向かった理由ではないか。
JT‐ 古典薬理学というWEBサイトがあって(今は閉鎖)、日本人でも物語を考えている人はいる。でも、まずい状況。というのは、でたらめの理論を作る。傷寒論の崩していけない部分を崩して変な理論を作ってしまう。江部洋一郎が傷寒論の本草について本を書いたけど、とてもまずい。出鱈目な理論の連発。傷寒論の研究者なのに。なぜなのか不思議。
大庭‐小さい論文を書くのに入りやすいのは、方剤の物語。例えば、桂の木へんに帚というイメージとそこから派生する桂枝湯シリーズの考え方、それと、現在の科学の成分分析のアプローチを重ね、どこが一致していてどこが一致していないのかを記述する。
JT‐麻黄湯の治ったといった経験と治療、例えば、汗?吐?下(瀉薬)または和(合わせ技)の考え方。これはすべて風邪を治す方法。こういう見方と方法は科学ではありえないのでは?
大庭‐証を含む見方に取り組むのは第二ステップ。第二ステップで、方剤と証の繋がり、という部分に焦点を当てる。
JT‐滋陰の方剤(2016年8月23日)とかは良い例かも。
2016年9月3日
◎不可妥協、但可調和的「五」與「六」兩張人體地圖:「沒學好的醫術」與真正的「BAD醫術」其分野。
JT‐漢方医学の基礎を教えに四川に行きます。5と6のシステムの違いが中国人でも多い。この違いをはっきり理解することが、傷寒論の理論の理解に繋がる。
◎得之於手而應於心(荘子):張仲景《傷寒論》的教學方法
大庭‐これ面白いです。
JT‐普通は、まず理論を勉強し、次に実践する。でも、漢方の勉強で進歩しやすいのは、まず実践、次に理論がよい。まず手にゲットする、その後に理解する。傷寒論に理論はなく、やり方?テクニック?ノウハウのみの固まり。だけど、テクニックをマスターすれば、傷寒論に書いていない病気でも対処することができる。理論は理解していなくてよい。傷寒論は武道の型?構えに近い。基本としての構えは実践でも役に立つ。今の漢方の大学はまず理論を教える。でも臨床の力を上げることはできない。黄帝内経は理論が密だが、実践には役に立たない。傷寒論は皇帝内経に背いている(離經派)。後世派は尊經派(皇帝内経に書いてある理論に基づいて、自分たちで方剤を創り出す)。ちなみに輔行訣は未離経派(五行の理論に基づいている。傷寒論より前のもので、傷寒論の元の一つになっている。)。
大庭‐傷寒論には理論は書いていないし、実践から作られたものかもしれないが、結果として理論が隠れている?
JT‐昔の中国人は5や6という観点?象徴物で、世界を見るパラダイム、メタファー、符号(code)を作った。それは必ずしも真実ではない。私にとっては、しいて言えば、の世界。なので、傷寒論の背景にある理論も、しいて言えば。5や6の世界を真実とすると、実践に使えない漢方となる。技術は、真理に至らないもの。
大庭‐真理に至るために作るもの。
JT‐荘子の考えから見ると、武術の理論も嘘。真理にアプローチするための嘘。五行も本当の真実ではない。メタファーをメタファーとして理解すればよいが、メタファーを真実としてはいけない。
大庭‐日本では、吉益東洞はメタファーを全部捨てた。中国の古法派は、メタファーをすてられたのか?
JT‐捨てなかった。
大庭‐メタファーを使うと説明しやすい。
JT‐そう。左脳で理解しやすい。だから。でも、それは真理に至るためには壁になる。仏教用語で、「知見障」自分が知っていると信じ込んでいると、そのこと自体が壁になる。
大庭‐日本では、メタファーを捨てた後、例えば本草の役割を消炎といった効果のみで扱っている。メタファーを捨てたことで、方剤がなぜ効くのかという物語が薄くなっている。結果、方剤と証の組み合わせが入り組んでしまっているように見える(傷寒論とは違い、一つの病気に色々な方剤で、反対に一つの方剤で様々な病気に対応している)。
JT‐証に基づいて方剤を使うというやり方は、真実との接点を作るやり方。しいて言うのであれば証が真実に一番近いところにある。武道において証に近いものは何?空手の訓練で、一番人間の身体の謎を解く可能性が高いのは何?自分の身体と会話することができる部分は?
大庭‐型そのもの。
JT‐そうでしょう。理論ではないです。真実をたどり着くための入口は型。
大庭‐証と方剤の組み合わせが型
JT‐そうです。漢方は「方証相応法」すなわち「型」。今の中国人は「型」ではなく、陰陽五行や六気といった理論が真実に近いと勘違いしている。
大庭‐武道では、様々な「型」の積み重ねで真実へ至ろうとする。
JT‐荘子によると、「道」は「可伝而不可受」。伝えることはできるが、受け取ることはできない。
大庭‐型も同じです。教えることはできるが、体得させることはできない。型体系全部を体得しないと本当のところはわかない。
JT‐はい。だから、大庭さんには、漢方を理解するために臨床の経験が必要。だけど足りない。「方証相応法」。武道の肉体での修得と同じ。漢方は学だから、理論をベースとしがちだが、そうすると行詰まる。一つ一つの「方剤‐証」の組み合わせに慣れていくことでレベルが上がる。慣れる過程で、自分の体と患者の体との会話ができるようになる。
大庭‐自分で感覚として分かるようになるから。
JT‐だから傷寒論に慣れた医者は、患者を一見して(一目で)方剤を処方できる。
大庭‐武道でも同じ。なぜできないかがすぐに分かる。
JT‐でも、人に納得させる解釈は与えられない。
大庭‐武道も同じ。
JT‐漢方は学問だけど、武道の練習と同じような学問。とにかく修練するしかない。心云々の前にまず手にする。これがないと、いくら勉強しても無駄になる。練習して体得する技術がまず必要。
JT‐役に立つ論文がよいし、存在する意味がある。だから、まずは漢方の能力を身に着けていかなきゃいけない。理論では、まず、5と6のシステムを分けることが大切。黄帝内経で、すでに5と6が混ざって溶け合っている。中国ではこのことが理解されていなくて、陰陽医が多く、実践的でない。喧嘩することのできない武術。
大庭‐5と6は調和しない方がよい?
JT‐すでに重なっている。傷寒は6の見方。でも、雑病は5の見方。張仲景の中でも5と6が混ざっている。雑病は六気ではなく五行の見方が多い。この5と6の違いを混同してはいけない。例えば、厥陰病は6の見方なので、これを、五行で解釈してはいけない。傷寒論に沿って厥陰病の証であるのであれば、傷寒論に従って6の考え方で見なければならない。五行で組み立てたもので解釈してはいけない。6の世界は6のパラダイムで対応する。
大庭‐それでも六気で分類できる証の解釈に五行の世界が混ざっている。
JT‐傷寒論のやり方が最優先。まずは、6の問題を処理する。その後に5の問題を処理する。部屋の構造(6の世界)、その後に、家具を整える(5の世界)。部屋を立ててから、リフォームするという順番。
大庭‐経脈は?
JT‐5と6両方が重なっているところ。内経の世界。だから内経で臨床に応用することはとても難しい。部屋と家具を含めている経脈は風水。
大庭‐5と6の接点ではないの?
JT‐いや違う。情報の交差点。
大庭‐5と6の接点はないの?5と6は重なっているけれど混ざってはいない?
JT‐いや、混ざってる。
JT‐話は変わるけれど、方証相応は臨床の経験がないと書けないよ。
大庭‐武道の話と一緒に書けばかけるはず。
JT‐それが一番正しいやり方と証明するのは難しい。武道とは違う。
大庭‐武道の場合であれば、暗黙知から暗黙知へと継承?発展させるという視点で書きたい。
JT‐継承ということ自体が難しい。
大庭‐型だけが残る。
JT‐型の実践によって体現する。それは学問というよりも、別の価値ではないのか?
大庭‐学問は言葉で共有することをベースとしていますしね。
JT‐漢方の性では?学問だけれど、学問になれない。荘氏の言う「可伝而不可受」は、道はmessageではない、Informationでもない、Principleである。構造としては、principleとinformationが分かれて、その間にmessageがある。Messageはformであり「意」です。傷寒論の証はinformationを暗黙知として含んでいる。証の奥は深いけれど見た目は簡単。Formは崩してはいけないね。
大庭‐武道の型(フォーム)は、身体に依存する。漢方の場合は、型は言葉として残っている。だけど、武道は身体に依存するがゆえに変化していく。
JT‐漢方にも同じ問題がある。今の漢方にも同じ問題がある。場所、時代、人によって違っている。
大庭‐でも傷寒論は残っている。知の伝達の仕方としての漢方、これを書けないかなと。
JT‐黄帝内経の段階ですでに型は溶けている。12の経脈になるともう混ざっている。でも臨床(方剤)には使えない。でも溶けているなりの価値がある。例えば鍼灸。鍼灸が黄帝内経を支える技術となっている。
大庭‐本草の物語もメタファーはメタファー。でもメタファーをどのように位置づける?
JT‐暗黙知に触れる手段。星座の神話と同じ。星座は運命を占う手段。
大庭‐ メタファーによって説明できるものがある。特に陽に効くもの(陰は化学でよいから)。陽のものに対しては、メタファーの方が良いのではないか?
JT‐本草の物語も誤りが多く、しいて解釈すれば、というのがたくさん残っている。臨床に効果がでればOK。でもそうなれなければ出鱈目。
大庭‐間違っていたとしても、現代科学とは異なる見方になる。存在しうる。
JT‐存在しうるというのは、何と何を比べる話?科学?漢方?今の科学は進歩途中だと思う。科学が漢方に追いつくのでは?
大庭‐科学は暗黙知を扱う手段ではない。
JT‐でも科学は明らかに形のあるもの以外も扱っている。
JT‐毒蛇の毒を呪文によって治す、これは科学では対応できない。帯状疱疹も台湾ではお寺で呪文で治す。骨が折れた場合、モンゴルの医者は呪文で治すこともある。これも科学ではない。
大庭‐それらが本当に治るのであればOK。体系をもったメタファーが必要なのでは。例えば5と6。呪文の話には体系がない。
JT‐精神の力で治すという理論がある。漢方にも精神で治すというやり方がある。例えば、皮膚の上のおできを豆でスリスリして、豆を地中に埋めて熱い湯をかける、という方法がある。おできを豆に移すというやりかた。傷寒論では、蜘蛛散(蜘蛛14個)は腸が陰嚢に落ちる症状を治す。蜘蛛の糸で治すというメタファー。
大庭‐そのメタファーは傷寒論には書いていない。後で作られたメタファー。
JT‐風邪が性交渉で移ったものならば、相手の下着を焼いて灰を食べて直すという方法がる。でも解釈不能。
大庭‐そのメタファーは暗黙知に手を届かせるものではなく、証と方剤を繋げるためでは?
JT‐本草のメタファーは、本草自身の性質を解釈するもの。一つの本草に色々な成分が入っている。昔の人には理解することはできない。
大庭‐本草の物語は、自己完結した物語。証と関係なく、科学と併記できる物語。
JT‐そうそう。黄帝内経、易経、本草経の3つは別々の独立したシステム。宇宙の表記法。どれもが真理ではない。
JT‐内経は5と6が溶けていて、易経は2と8の物語。本草は薬性で数字のシステムは関係ない。
JT‐易経が好きな人はすべての物事を易経で解釈したい。五行が好きな人はすべて五行で解釈したい。僕はどっちでも良いけれど、どっちも一つの表記法。メタファーは真実かどうか分からないといのが僕の考え。どれが真実かは分からないし、どれも真理には至っていないとも言える。漢方では病を治せばよく、メタファーはそこまで気にしなくてよい、というのが中国人の考え方。体用合一。体は理論で心、用は手段で手。手ができればよい、心の部分はしいて言えば理解していればよい。体武道でいえば相手を殴れればOK。だめなら練習してきた構え(型)は間違い。荘子は心を信用しない。表面意識的な心。執着に繋がるから。師心者はダメ。荘子は体を信じる。
大庭‐心身合一は?
JT‐それにはいくつかのレベルがある。
大庭‐身体のレベルが上がれば、心のレベルも上がる。身に着ける度合いが深ければ、それだけ心も深くなる。
JT‐野村萬斎は、子供の教育は躾。身体を直して、心を直す。日本的。中国大陸だと少し別の解釈になる。例えば気功を練習する人は、自分の心境(mental state)も上がると信じている。でもこれは嘘です。
大庭‐そうでしょうね。
JT‐荘子は以芸進道と言っている。どのような技術でも一緒だと荘子は思った。でもこれは相当に高いレベルで起こること。僕の漢方であれば、まだ心境を上げるという域には達していない。まだマスターではない。
大庭‐世界観は変わっていくのでは?
JT‐確かに。漢方を勉強する前と比べると、何も分からないことが分かっている。
大庭‐梯子の一段目が分かると、その梯子の長さが見える。でも、その梯子自体の存在が見えなければ駄目。見えない人には、次元の変化はない。見えない人たちが、武道であれば型を壊す。次元が変わることで見て感じる世界が変わる。
JT‐僕のrealityは常に変化している。でも、これは荘子の考えで、漢方の世界ではない。
大庭‐漢方には方法論があるのでは?方剤-証という方法自体が、すでに暗黙知の引き出しとリンクしている。メタファーで方剤と証を繋ぐ理屈を構築している。
JT‐でもメタファーは陰陽医を作る危険を含んでいる。5と6のシステムは実践のシステムの中ではメタファーの中では安全だと思う。臨床から離れると間違いになる。
大庭‐みんな方剤―証の間の説明をつけたがる。それを科学は科学で、漢方はメタファーを使う。
JT‐メタファーは本来、左脳と右脳を繋げる役割。右脳の見えている世界を左脳に伝えるのがメタファー。
大庭‐5と6の世界はメタファーとしてすでに存在していて、本来は方剤-証の世界とは無関係。でも、5と6の世界の観点で方剤―証の関係を説明しようとする。方剤と証を繋ぐもの自体がメタファーなのではない。メタファーはすでに5と6の世界の構築に使用されている。だから、方剤と証をメタファーで繋ごうとすると陰陽医になってします。
JT‐方法論の問題。
大庭‐そう、科学は方法論の問題だと思っている。
JT‐今日話している内容を、生徒に教えると、生徒はどういう風に捉えるの?
大庭‐科目が違うので授業では話さない。お酒飲んでる時には話しますけど。
JT‐いつか武道で師匠になるときには?
大庭‐話ますよ。
JT‐分野が違う。学問の世界では。
大庭‐総合人間学として取り込む。
JT‐いつか自分の分野を創造りたいし、必要がある。こういう分野はない。
大庭‐分野とするには、モノコトの見方と表現、というのがカギだと思う。
JT‐科学が処理するのは事実(Fact)。今、我々の話しているのは、真理ではない、いくつかのversionの真実。
大庭‐その時には、再現できることが大切。再現、継承、共有。
JT‐道は継承できる?
大庭‐例えば、芸術や宗教では、ここには入れない。漢方は身体に依存しないから、武道よりも継承が容易。
JT‐ 鍼灸は武道と同じで練習が必要。でも方剤は練習しなくてもできる。でも自分勝手に変えてしまう人には無理。
大庭‐論文と学問のステップ。①方剤の物語、②方剤と証、③型と暗黙知?形式知、の話。
2016年10月3日
大庭‐一卵性双生児(ゲノム同じ)を対象として生活習慣をフォローしていくと、遺伝子に基づく病気は10%程度である(エクスポソームの話)。
JT‐つまり、陰が由来する病気は10%で、陽(魂など)が由来する病気が90%。
JT‐漢方と現代科学(医学)のパラダイム:現代ではダイエットはホルモン(なぜ脂肪を燃やせないか)の問題という視点がある。でも、漢方にはホルモンという視点はない。効果はでるけれど、理論は滅茶苦茶。なぜ特定の方剤がホルモンに影響するのかは科学的パラダイムでは不明に見える。漢方のパラダイムと科学のパラダイムに架け橋はあるのか?例えば、陽気不足で痰が溜まる(脂肪がたまる)という視点は科学にはない。陽に働きかける方剤は科学的には扱うのが難しい。加えて、漢方のパラダイムでも合理化できない方剤も多い。例えば、方剤の中に陽と陰の本草が入っていて、陽に働きかける方剤のとき、陰の本草を抜くと効果がなくなる。
大庭‐変な合理化をすると分からなくなる。傷寒論の証と方剤の組み合わせに戻る。
JT‐理論は分からないで済ます方が安全。